常磐音楽舞踊学院 初代フラガール

初代フラガール
「フラガール」のロケにも使われた旧常磐炭礦の「神の山住宅」。きれいに手入れされた家並みが今も残っている=茨城県北茨城市で 
ハワイアンズで踊る現代のフラガールたち=福島県いわき市で
フラガールたちの背後にズリ山がそびえていた=小野恵美子さん提供 
ハワイアンセンターオープン当時の早川和子さん(右)と小野恵美子さん(左)。早川さんの左は中村豊・常磐炭鉱社長=小野さん提供 
 
  映画「フラガール」
早川和子と小野恵美子
2007年09月15日
 山口瞳のかのウイスキー広告「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」から5年後のこと。「1000円持ってハワイへ行こう」をキャッチフレーズに「東北のハワイ」がオープンした。
 
 常磐ハワイアンセンター。1966(昭和41)年の開業時、入場料は大人400円、子ども200円だった。現在はスパリゾートハワイアンズと名前を変えた、福島県いわき市にある一大温泉テーマパークである。時代を考慮すれば、東北にハワイを造ろうなどというのは、千葉・浦安にディズニーランドを持ってくる以上に野心的な企てだったに違いない。 
 たまたま今年、初めて家族で訪れて驚いた。併設されたホテルのフロント前に、海パン、ビキニ姿の若いカップルが立っているのだ。いくらプールが主役のホテルでもと思ったが、備え付けのアロハをおそろいで着た3世代連れや、浮輪を手に喜々として走り回る子たちの姿を見るにつけても、こうした気取りのなさが東北のハワイの持ち味の一つでもあるだろう。
  素人っぽさが残るのも当然だ。本州最大の常磐炭礦が石油に押されて閉山を避けられなくなった。かつて黒いダイヤを掘れば掘るほどわき出して「やっかいもの」とされた温泉を活用し、常夏の楽園を売り出そう――雇用対策を迫られ、百八十度の路線転換を図る当時の中村豊社長のアイデアだった。
  そのハワイアンセンターを舞台にした映画「フラガール」が封切られて1年になる。プロデューサーの石原仁美(ひとみ)さん(43)によると、きっかけはテレビ番組で創業物語を見たことだ。中村社長を主人公に、当初は「プロジェクトX」のような構想もあった。ところが取材を進めるうち、炭鉱関係者の子女だけで結成された素人フラダンスチームにひかれていく。横浜から招いた講師に指導を受け、悪戦苦闘しながらも涙と感動のステージに上るまでを描くことになった。ダンス講師を松雪泰子、なまり丸出しの素朴ないわきっ子たちのリーダーを蒼井優(あおい・ゆう)が演じた。
  ふたりの主人公にはモデルがいる。ダンサー養成のため創設された常磐音楽舞踊学院の講師として縁もゆかりもない土地に飛び込んだ、日本のフラダンス界草分けの早川和子さん(75)、学院第1期生のリーダーで今や後進の指導にもあたる小野(旧姓豊田)恵美子さん(63)。小野さんにとって、早川さんは「話し方もはっきりして、あこがれの都会の人。礼儀を含めて指導は厳しかった」。早川さんは、小野さんについて「地方にこんなきれいな踊り手がいるのかしら、と思うくらい、本当にきれいでしたね」と言う。
  がらんとした炭鉱の保養所に一人寝泊まりしながら指導にあたる早川さんが心細さを訴えると、近くの寮にいた小野さんはしばしば一緒に泊まってあげた。「姉妹のよう」とも言われたふたりは、布団を並べて語り合った。 
「独自の振り付け」大胆に
 「押し寄せる……オイルの波にのまれる前に仕掛けんのさ。家族やヤマ救うために、君たちが……立ち上がるんだぜいっ!」
  ダンサー募集の説明会に集まった娘たちを前に、岸部一徳演じる炭鉱の元労務課長が自らをも鼓舞するように言い放つ。と同時にジャンパーを脱ぎ捨て、下から現れたのはアロハシャツ――労組の強い反対もあって公に構想を語るのもはばかられたという、開業前の空気を象徴する映画の一場面だ。 
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 社内の声かけや他薦でどうにか集まった常磐音楽舞踊学院の第1期生は15歳から21歳までの18人。最年長の小野恵美子さんは、小学2年からクラシックバレエを続け、磐城女子高ではダンス部の主将も務めた。貴重な舞踊経験者としてリーダーに指名された。 
 講師の早川和子さんは当時33歳。28歳でハワイに留学してフラを学んだ時に一緒だったレフアナニ佐竹さんとテレビに出たのを中村豊社長が見ており、2人とも講師に招かれた。6年後に佐竹さんが結婚してハワイに渡ってからは、早川さんが1人でフラダンスとタヒチアンダンスを教えてきた。 
 学院の発足は1965年4月。翌66年1月15日のハワイアンセンター開業まで10カ月もなかったが、練習はバレエの基本レッスンから始まった。 
 当時の反復練習について、1期生は皆「大変でした」と口をそろえる。父が教育者だった早川さんは礼儀を重んじた。皆が一生懸命やっている時に遊んでいるような生徒には容赦なくバケツを持たせて立たせることもあった。 
 だが、バレエの素養があった小野さんは「しかられた記憶はない」という。家族が常磐炭礦の事務部門で東京勤務だったため、休みで帰るついでに早川さんと六本木や赤坂で待ち合わせ、ゴーゴーバーで踊り明かしたこともあった。「先生……いるんでしょう?」。ふたりの間では、他の生徒とは交わさないような会話も成立した。 
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 開業を1カ月後に控えた65年12月、東京・大手町で旗揚げ公演があった。
  「かたむいた炭鉱の運命を、体を張ってばん回しようとする孝行娘」 
 新聞がそう報じたように好意的な反応が多く、盛況だった。ところが、地元いわきの目は複雑だった。「炭鉱の娘が裸で腰振りダンスをするなんて」という偏見が、依然根強かったのだ。 
 乗り込んできた「よそ者」の早川さんが一身に反感を受けた。仲間であるはずのバンドマンまで言うことを聞かないような時は、泣きたくなったという。当時は2連泊して横浜へ戻る繰り返しだったが、「二度と来るものか」と思ったことも一度ではなかった。 
 一方で、前ぶれ公演のために全国をバスで回った先生と教え子たちは、まるで母子のように「一山一家」を地でいく固いきずなで結ばれていった。 
 映画でもバスキャラバンの様子が登場するが、早川さんが「車中、本当に小野さんとの間で、あんな会話もありましたよね……」と思い出し、目頭が熱くなったというシーンがある。 
 「先生は、なしてがんばるんだ」「行くとこ、ないんだよう……どこにも」「したら……ずっと、いわきにいだらいいべさ……」 
 早川さんはその後も指導を続け、97年には小野さんを後継者に指名し最高顧問に。今も月1回は指導にあたる。独身を貫く早川さんに、中村社長は生前、「ハワイアンセンターと結婚してくれたようなもの」と感謝していた。 
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 今回の映画に、師弟コンビは舞踊の指導でかかわり続けた。早川さん独自の振り付けが、節目の場面で効果的に用いられている。例えば、ラストのクライマックス。開業初日の晴れ舞台で、ソロで踊る蒼井優が若さあふれる動きで観客を総立ちにさせるのだ。
  ひざを折った状態でのけぞるように仰向けにバッタリと倒れた後、ややあって「タタタン、タタタン」という太鼓のリズムに合わせ、ゆっくりと上体を起こしていく。「終わりか」と思っていた観客はワーッと沸き立つ。
  「コーラスライン(バックダンサー)が全体的に上手になっていくと、どうしてもソロが埋没しがちになる。構成のヤマ場を作るために考え出したのです」と早川さんは話す。女性には過酷な、腹筋と太ももの筋力を要するダイナミックな振り付けだが、小野さんがソロを張っていた当時は、さらに「腰を浮かせて円を描くようにしながら、起き上がった」という。 
 早川オリジナルの振り付けは、今もスパリゾートハワイアンズで1日2回催されるショーに盛り込まれている。
  それはまるで、ヤマの灯が消えてしまった後に、「東北のハワイ」として再生していった、不屈の歩みを象徴しているように見える。
文・小西淳一、写真・田頭真理子
〈ふたり〉
 早川和子(ハワイアンネーム・カレイナニ早川)さんは幼少から服部・島田バレエ団でクラシックバレエを習い、その興行で24歳のとき訪れたハワイでフラダンスと出会う。28歳で再びハワイに留学し、本場のフラ、タヒチアンダンスを身につけた。今も横浜などで「早川洋舞塾」を主宰している。
 小野(旧姓豊田)恵美子(レイモミ小野)さんはいわき市出身。父親も勤めていた常磐炭礦の東京本社で庶務の仕事をしながらバレエを習っていた。76年までハワイアンセンターの舞台に立ち、現在は常磐音楽舞踊学院の教授。いわきのほか郡山、仙台市内にもスクールを開いている。